夢の記憶喪失論

 

 夢の僕は記憶喪失になったことがある.つい最近の話である.記憶喪失になってはじめて,僕は記憶喪失を恐れることになった.

 夢を再現しようとして,記憶力と想像力をフルに働かせて,僕はある場所を描いた.

 

 一面コンクリートの世界で,僕のすぐ隣は崖になっていて,崖の横にはコンクリートのブロックが,飛び移れる程度に隣接している.手すりを乗り越えれば,そこに行ける. その崖の向こう側にも何かがある.向こう岸はコンクリートではない,芝と砂に覆われた,どこにでもありそうな公園である.ツタの被った東屋,そして緑色の空気が公園を包み込む.

 

 そんな景色を再現していたら,そこそこの出来になった.完全な再現ではないけれど,特徴はつかめている.雰囲気,質感,色,においまで思い出せそうな出来だった.とりあえず60パーセントの出来というところで,僕は妥協した.「妥協した」というより,やはり夢を完全に再現することはほぼほぼできないと言ったほうがいい.絵を描く技術が不足していたというのもあるが,完全に描けないのにはもっと別の理由がある.

 

 夢の僕の記憶の中には,たしかに夢の景色が100パーセントの再現に成功している.頭の中ではイメージできるのだ.夢を見たとき,なにを感じていたのか,どうしたかったのか,など,そういう感覚が,現実に表現することができなくても、なぜだか分かる.

 

 そういう感覚というものを,なんとか形にしようとした結果が60パーセントほどの出来だった,ということなのだ.

 出来上がった絵をしばらく見つめ,僕はとりあえずの出来に満足することにした.

 

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(↑夢で見たものの再現)

 

 次の日,僕はあることに気が付いた.今までできたことができなくなったのだ.頭の中では100パーセントの再現を誇っていた,夢の僕による夢の再現が,70パーセントほどにしかできなくなった.夢で見た風景を思い出そうと目を閉じて必死に集中しても,昨日描いた絵が出てくる.昨日描いた線,色,雰囲気が,夢の僕の意識のすべてを覆いつくし,かつて感じることのできたあの感覚が,消えてしまったようである.たしかにあったあの感覚は,私が現実に作り出した絵の特徴が本物のあの景色すべてに上書きされて,もう二度と思い出すことのできないものとなってしまった.もともとどんな景色だったのか,そこではどんなことを考えていたのか,何のために絵を描こうと思っていたのか,何のための夢だったのか,夢の僕には見当もつかなくなってしまった.

 夢の再現は,夢の僕(僕)の夢だった.

けれど,それは夢という「そういう感覚」を消してしまいかねない,恐ろしい作業だったのだ.

 

 夢を思い浮かべながら描く作業は捗った.いつも風景画やアニメキャラのイラストを描けずにむなしさを感じていた僕は,夢の再現にその救いを見出していた.

 僕は,絵は,カメラにも文学にも再現できない「そういう感覚」を見事に再現できる優れたものなのだと確信していたが,それは大きな危険を伴う実践だったのだ.100パーセント再現できるならそれに越したことはないのだが,再現に失敗して中途半端な出来栄えになってしまえば,「そういう感覚」は偽物のそれにすべて置き換えられ,上書き保存され,二度と再現できなくなる.さらに,二度とそれを感じることすらできなくなる.

 僕の夢の記憶はまがい物に上書きされ,上書きされた記憶は新鮮味のない「現実」と化す.

 

 僕は現実に記憶喪失になったことがない.だから,記憶喪失がどんなものなのか,なったらどんな気持ちになるのか,何を求めたいのか,全く見当がつかない.人とのつきあいのいざこざや,うまくいかないことのあれやこれやを,記憶喪失になることですべて忘れることができるのだろうと,かき消すことができるのだろうと,僕は記憶喪失にある種の期待の幻想を抱いていたのだ.

 つらい記憶やコンプレックスを消すのには,この記憶喪失は役立ちそうである.つらい感じは人それぞれ異なるだろう.「そういう感覚」になぞらえて言うなら「そういう嫌な感覚」は,記憶喪失の手続きを踏むことで,頭の中での再現を止めることが可能になる.夢で見たあの美しいような懐かしいような記憶が消えたのは,それを現実世界で目に見える形に再現したからであり,「そういう感覚」は再現を通じて消えることになる.つまり,「そういう嫌な感覚」も同様の手順を踏み,つまり,絵なり文章なり,そういうものに書き起こすことによって類似の嫌な記憶に上書きされ,元の記憶は消えるはずである.「たしかに嫌ななことがあった」という気づきだけは残るが,その内容だけがすっぽり消えることだろう.

 逆に,記憶喪失は愉快な記憶を消してしまう危険がある.家族はもちろん,社会で出会った大切な人とのかかわりの記憶が消える.感じることのできていた「人間の温かみ」みたいなものは,きっとどこかへいってしまう.

 

 また、再現が10パーセントとか,あまり再現度合いは優れていないけれども,特徴だけはかろうじてとらえているような再現は,そこまで元の夢の記憶を消す危険性は高くない.再現度の低い夢の再現が記憶を消さなかったことが実際あったので,こういうことが言えるのだ(ここではその説明を端折るが).

 夢の内容が,イメージが曖昧であり,かつ,再現の度合いが中途半端に高ければ高いほど,再現の危険性は高くなるとみている. 

 

総括

「嫌な記憶を消したいから記憶喪失になりたい」という願望は「勉強がつらいから大学を辞めたい」というのと同様に安直で危険な思考だ.ただ,嫌な記憶を消すのに寄与するあるひとつの手段としては,嫌な記憶を目に見える形に再現するというものが挙げられるだろう.嫌な記憶は類似の記憶に上書きし,元の記憶を思い出すときの障壁にすることが,嫌な記憶を消すひとつのうまいやり方なのだろうと,僕は考えている.ただ,嫌な記憶がはっきりとしたものであればあるほど,それは難しくなる.曖昧な,正体のわからない不安を消すには最適な方法ではないだろうか.

頭で考える世界,イメージの世界というものについて,それ自体を完全に見える化する作業というのは,すればするほど,それらが現実の平凡な事物に還元されてしまう,一見創造的なようで,実はむなしく模倣的な作業に過ぎないのだろう.

また, 夢の再現を通じて夢の記憶が消えてしまうのは《夢の内容やイメージがあいまいであり,かつ中途半端に精度の高い再現をしてしまったとき》に,今のところは限られるだろう.

 

追記①

また,夢の中で同じ場所に行くことができれば「あの感覚」は取り戻せるかもしれない.夢で見た「あの感覚」を取り戻すために,夢の世界を冒険するという物語が描けそうな気がする.

追記②

再現が100%またはそれに限りなく近い度合いであれば,上の文章で述べたことは問題にならない.だから,絵に夢を再現するなら,再現できるほどの腕前,現実の風景画をうまく描くことができるとかいうスキルは必要だろう.文章に再現するなら,言葉をたくさん知り,読み手のイメージをうまく操れる細工を持っていればよいと言うことになる.

 ただ注意したいことは,そうした絵画や文章をつくりあげるとき使う理論と夢の世界のイメージがうまく当てはまるかということである.4次元のグラフを人間が理解することができないのと同様に,夢の世界の様相も,現実ではとらえられないものかもしれない.実際どうなのかはわからないが.

追記③

うすぼんやりとしたものは,うすぼんやりとしたままにとどめておく方がよいと言える.消えてしまいそうなイメージというものを,それを大切にしたいと思うのなら,ありふれたもので置き換えてしまうことだけは避けるべきだろう.

追記④

 風景を見て,少々,感じることがある.何を感じるのか,どう感じるのか,なぜ感じるのか,よくわからない.だから,しっかりとした形として,記憶に残したくなるものである.だから,写真を撮ったり,自分は今何を感じているのかの整理をすることだろう.だがそういうときは,すぐに写真を撮るのをやめて,すぐにあれこれ考えて感覚を掴めるものにするのではなく,ただ微々と湧いてくる感覚を無批判に無思考に受け入れるべきだろう.考えるのは後でもよい.

追記⑤

ある作品と出会い,受け取るイメージというものは,実はそうではないものの再現といえるのではないか.ある作品と出会い,感銘を受けるあの心地よい経験は,作者のイメージの「偽物」であり(そういう意味での「フィクション」という名前があるのだろうか)本物を知ることはほとんど無理な試みなのだろう.